2009年7月11日 (土)

お気楽亭と清志郎の関係

090408 実を申しますと、清志郎さんに当ブログの歌を作ってもらったことがあります。
  ↑大ウソです。
清志郎の命日を知ろうと思い、「”お気楽亭” ”清志郎”」でググってみたところ、清志郎(とゆずの北川悠仁)が『お気楽亭』という歌を歌った、との記事があった。5年前のアップでした。

動画サイトを検索してもそんなものはなかった。
どなたかアップしてくださいな。
当ブログにアクセスしたらこのテーマソングが流れるように細工します。(←できるんかい?)

マイクロソフトのWGA Notifications というのがしつこくインストールをせがんで来る。違法コピー版のWindows XPに警告するらしい。うちのPCはネットで買ったものだから、怪しいと言えば、怪しい。

立ち上げる度に出てくる「インストールをしなさい」バルーンを一々消している。うかうかインストールして、もし海賊版だったら60分毎に画面がまっ黒に表示されるという。おそろしい。
これもウィルスの一種、ではありませんか!MS製の。
黒い壁紙が表示されるだけだから、すぐ元に戻せるけど、一時間毎にこれをやられる。拷問を加えても正規版を買わせる御所存でしょうか。?正規版、もう売ってないでしょ。

アンインストールは出来ない、らしい。
やってみます?
うるさいほど来ていたキングソフトのアンチ・ウィルスが近頃来なくなって、「セキュリティが不十分です」の警告が出るようになったので少し不安になっているお気楽亭です。

2009年7月10日 (金)

横丁を

090306 横丁を曲がると、見知らぬ世界に出る、というのを体験しなかった人はいないでしょう。
馴染まない世界へ行くか行かないかは、
横丁の右へ行くか左に折れるかで決定される。
あの時、右に折れていたら、こんなことにはならなかったろうに。
もう遅い。
あなたが知るのは自分の来た道だけであり、
行かなかった道ではない。

あなたは右でも左へも行けたろうが、
どちらかにしか行けなかった。
あなたは、必ず不運の方に舵を切ってしまう。

検証できなかった彼方は不安の霞の裡にある。
不幸だって茫洋とした不安よりもずっと確かである。
不確かな幸せより確かな不幸が手ごたえはある。

不幸が、むしろ杖になるのだ。
杖の要らないハッピーな連中より、
こっちの方が高級(つまり高く売れる)だとおいらは考えている。
安物買い集めたって、なんにもならねーよ。
人間商売はな。
利は元にあり、は商人の鉄則だ。
何を仕入れるか、が問題だ。
葛西善三やつげ義春は何を仕入れ、どう売ったんだろう。

こういう経済学は誰が教えてくれるんだ?
不幸せの売り方を。

サントリー トリスCM「子犬編」
http://www.youtube.com/watch?v=XDEzFPzUfUM&feature=rec-HM-fresh+div

2009年7月 9日 (木)

根岸の里の侘び住まい

090626 漱石や一葉の作品を読みかじっていると、本郷、千駄木、団子坂、谷中、日暮里、根津、吉原、下谷万年町(唐十郎のにも出てきた)、三ノ輪、根岸などなど、懐かしい、はずはないけれど、懐かしい気になってくる。
森鴎外、幸田露伴、正岡子規、石川啄木もこの界隈に住まいした。吉本隆明もここいらだろう。

田んぼ道の散策は飽き飽きした。
一度はこのあたりをぶらぶら散策してみたい。
目立てやブリキ屋なんかはもうないだろうなあ。

町名変更なんか、つくづくお役所のご都合主義だと思う。
「まとわりつく(情緒)」なんてのが邪魔でしょうがないんだろう。そんなものを引きずってくれるな、と言いたいんだろう。
永井荷風はそんなモダニズムが我慢ならなかった、と言うか、そんなら俺を捨ててくれてもよござんす、と。

捨てる者と捨てられる者、この間に橋を渡すものはいないのか?

■「秋葉原」「土浦」に続いて「大阪パチンコ店」。
経済的不遇を社会にせいに、とニュースのアナウンサーは言っていた。つまり批判していた。
マスコミが「公明正大」なら公平に言いなさい。
人殺しの因子は誰でも持っている。他所の何かがそれに火を点けたら誰でも人殺しになれるのだ。
俺だけはそんな馬鹿な真似はしない。理性も教養もヒューマニティもあるし、と思っている。とんでもない自惚れである。

■平岡正明が死んだ。
えーと、http://blog.livedoor.jp/cinecitta2005/ さんに任せておこう。

写真はトイカメラで撮った地球と宇宙船。

2009年7月 8日 (水)

樋口一葉

090708 漱石の『明暗』の心理劇で疲れたので、一葉で一服。
『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』一気に読んだ(いや、正直に言えば三気で)。これで105円だから、得をした気分になる。買わにゃ損だ、と思わせるモノは世の中そうそうないよ。

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申(もうし)き、云々(『たけくらべ』冒頭)

『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝)にも出ているし、俵万智は「耳で聞く一葉」と言っている。文語体には手こずるが、「語り」とすれば、すばらしく上質だと思う。うまいもんだ。
謡いや新内とかが生きていた時代だからね。

上の3作は明治28年(1895)に発表されている。
漱石も感心していた。文学少女は掃いて捨てるほどいたろうが、たった23歳でこの筆力は稀有だったでしょう。明治のインテリはだいたい漢詩とか日本古典とか寄席とか和歌とか、私などから見たら驚くほどの教養があります。一葉も和歌から始めた。5000首ほど作ったらしい。与謝野晶子にお株を奪われたけどね。

ところで、一葉は漱石の兄嫁になりかかったことがある。
樋口家の資産がまるでないものだから、夏目家は破談にしてしまった。惜しいことをした。漱石+一葉で一大文学コンツェルンになったろうに。
それともう一つ、江藤淳は漱石の兄嫁登世との恋愛関係を勘ぐっているが、ひょっとしたらそんな関係も勃発したかもしれない。これも相当惜しい。一葉は漱石の五歳年下。

彼女は明治29年(1896)、24歳の若さで死んだ。
一葉読んで日本(の女)も捨てたものではないと思ってくださったらうれしいです。

2009年7月 7日 (火)

部落問題のおまけ

080710 ほんに今夜は七夕か。
色っぽい話でなくてすまん。
「検索フレーズランキング」を辿ってみたら、以下のブログ記事に行き当った。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
(魚住昭 『野中広務 差別と権力』=講談社、2004年より)

麻生さんは右往左往はしていても、さばさばしており、日本国の総理もこんなもんでいいじゃないかと思っていた。

むしろ、野中広務さんが総理になるほうがよほど良かったんだ。
民俗学が好みのあたしにしてみたら、現代「民主主義」によって崩壊しつつある美しい「部落」(中上健二の「路地」など)を惜しむ気持ちが強い。野蛮でアナーキーで切れやすい彼らの民俗を、ラフカディオ・ハーンや柳田國男が掘り起こしておいてはくれなかったろうか。存じません。

差別と被差別はないほうがいいに決まっている。
ただね、川原乞食が皆様の御愉快を提供したことをなまじ知っているものだから、単線的な断定はようせんのだな。何かを残して消えて行く、それが遺産になるだろう。

2009年7月 6日 (月)

批評っぽい

090626toycamera_my_car 「お気楽亭」であたしはたまに批評っぽいことを書いておりますが、的を射てないという不全感をいつも持っております。
これをうまく説明することができない。
「わだかまり」はいつも解けずに残る。
この遺恨があるかぎり、読む人には到達できないのではないか、と思ってしまう。

勝手な御託をほざいていればいいさ、と思わせるとしたら、どうやら自分の解けずにいるものを秘匿して、上っ面だけ披露してそれでよしとしているのではあるまいか。

太宰治の「すさまじい自己肯定」という科白をいつも思い出す。
自分が可愛いだけじゃねえか。

だからね、(他人を)批評する場合に必要なのは、当たり障りのない=批評なき言辞はまことにつまらないという第一前提の上に、もう一枚オブラートのような一膜が要るんじゃないのかと思うわけだ。

それが何だかわからない。
愛情とかシンパシーみたいなものか、とも思う。
それではキッパリ切り捨てることができないではないか。
世界から蛇蝎のように嫌われている北朝鮮や「テロリスト国家」に、蛇蝎は蛇蝎の生き様をしているだけだ、どこが悪い、という言い方をしたこともある。おれも「すさまじい自己肯定」がたまらなく嫌いだからな。当然、北朝鮮や「テロリスト国家」に対しても、だ。

心弱きうろたえまくる人々が、心強く声高くケツゼンとした人らに引きずり回されるこの世の常態がおれは嫌いなのだ。
そんなわたしにケツゼンとした批評が出来うるわけがない、というのが「お気楽亭」のせめてものいいところ、かもしれない。
なんだかわからないや。
(続きはいつか、どこかで。)

写真は先日紹介した銀塩110フィルムのトイカメラで。
十分使えます。

2009年7月 5日 (日)

トイカメラ

090404 そりゃ、あたいだって金さえあればCX1とかデジ一買うわい。
あ、話はリコーのデジカメです。
たいてい新しいものがいい。
後継機のCX1はシャッタースピードが速い。
モニターもきれい、という噂。

いいんだもん。
カメラがないから絵を書くね、
の手間を省いてくれるだけで大助かり。

R10は1000万画素らしいけど、
必要、ありゃーせん。
130万画素のオリンパスのD-460でも十分すぎるほどだった。
しかもフルサイズで使ったことない!
絵作りはむしろこっちの方が好みだった。
ホールド感もよかったし。

新しいものでなければダメ、という風潮に抗するモチベーションを内部に醸成しないと、負け犬になってしまう。
これには新しい物を買う以上の資源を投入せねばかなわない。
金に余裕のある奴は、この「資源」を勘定できない。
たんに、貧乏人だからな、としか思わない。
それでは真実の半分しか手に入れられないぞ。
金で買える世界は世界の数パーセントでしかないことを金持ちはご存じない。と言うか、排除している。貧乏人のつけ入る隙はここにしかない。

という訳で、全国の貧乏人諸君が新しい経済学を作っておられる。

デジタル・カメラにも千円~二千円台のトイカメラはある。
いいカメラがいいカメラだというトートロジーから抜け出した世界がここにある。自分の意匠からスルリと抜け出した偶発性があなたの意図せざる新しい頁を開示する。あなたを裏切る契機は、あなたの想像を超えてあたりに散らばっておるのである。

ブログの写真はトイカメラ一本。
そんな洒落っ気が新時代の繭となるだろう。
誰かやりなさい。世をちょっとだけスネてみなさい。
ほらね、新しい光芒が見えてくるでしょうが。

VQ1005 参考まで
http://redpop.jp/vq1005/history.html

2009年7月 4日 (土)

児童虐待

すんまそん。
またテレビネタです。
NHKの「虐待の傷は癒えるのか」。
あたしも虐待されていた。
「母ちゃん、登山靴買ってよ、皮の」
と言い出せないほど虐待を受けていた。
冬山へキャラバン・シューズで登った。

「愛着障害」というのを初めて聞いた。
親が十全な愛着を保障できなかった児童がその補償を肉体的な「暴れ」で補填しようとする。
もちろん、言葉で「あのね、親が虐待したからね云々」などと説明できるはずはない。

「痛い」「悲しい」「なぜ?」が繋がらなくなって、その子の精神のネットワークが寸断されてしまっている。ケースワーカーは「言葉が通用しない」と嘆く。
虐待の傷は(成長期に)重要な幼児期であるため傷薬の投与ぐらいでは容易に修復できない。
まず、言葉で言い表せるようにする。言葉に繋がってくれば治癒に近づく。これはフロイト以来、そうだ。(フロイトは偉大ですな。)

18歳でこの施設を出るのだが、親の元へ帰るのか。
この親が「虐待?なんのこと?」とテンとして動じない。
心が入れ替わる訳もない。

この(若い)親にしてからが、「親の因果が子に報い」子育てしているだけだから、子育てのテクニックがどうのと言われたって、「へ?」だ。

でな、虐待の元になるのが(あらゆる意味での)貧困、つうわけだよ。「蟹工船」的で、ひねりのないお気楽亭だな、と言われようともだ、「豊かさ」から排除されているスネ者は、やっぱりスネて生きるしか道はねーだよ。
なるだけ早くこの厄介者を効率良く排除してもらいたいものだ。

親の元へ帰る18歳になった女の子は言う。
「やれるとは言い切らんけど、やってみる。」
おいらは泣きながら見ていたことがやっと分った。

腹が立つので写真はストライキ続行だ。
ロケハンに行かにゃあ。

2009年7月 3日 (金)

職業としての乞食

ある人からのメールに曰く、

>新橋駅構内にあなたくらいの年齢のホームレス数人
>雑踏のなかで行くあてもない
>手足は真っ黒
>頭髪はべっとり
>衣服は雑巾のよう

あはは、おれ、おれ。
そのうちの一人はわたしである。
明日から、だけど。

日本国憲法には明記されている。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

このホームレスの「基本的人権」の姿がこれであるのか?
基本的人権という空想的な権利からドロップアウトするのも権利の一つである、とも言える。それはあくまでも権利であり、なんらかの強制がもし働いていたとしたら、掃き溜めに行くことが望んで赴いたことにはならない。
確認を取っておく。そうだよね。

国家は富貴(神話)に憑かれている。
某国のように「我が国に貧民窟はない」と言い張ることもできる。
乞食の存在は国の恥、と大見得を切る。

私は、乞食を職業として認めたらいいと思っている。
存在しないことにしよう、ではことが済まない。
資本は零細ながら空き缶一つ。
資本主義を標榜しておきながら、なんでこれを承認しない?
強盗、泥棒を奨励するつもりか?
職業選択は自由のはずではなかったか。

ぼーっと突っ立て居るホームレス者の前に空き缶一つ置いておけば、浄財が世間を巡るではないか。人倫もいまだ捨てたものではない、とポジティブになれるし、滞留する資産が少しばかりでも活動し景気浮揚の後押しにもなろうってもんだ。
ホームレスに雨宿りの場所を提供しなさい。

もったいない?
あんたの吝嗇が、人の世の恥辱の元なのだ。
腹が立ってきたので写真はストライキ決行だ。

2009年7月 2日 (木)

辻井伸行

090621 泣きながら聴いていた人も多かったとニュースで見た。
私もピアニストの端くれですから、どこが違うのか分らないが、なんか違うことが感得できる。レベルの違う異能・異才が確かにある。

今日のNHKの「クローズアップ現代」。
審査員はノート1ページに各演奏者への評を書いて行くんだけれど、その審査員は一聴、ノートをたたんで聞き入ってしまったそうな。
ブーニンのことは当お気楽亭の2006年7月24日を読んでいただくことにして、ファー・イーストの辺境に西洋音楽のこんな見事な花が咲くのは信じられないことだったろう。

私も精進せねばならない。
6月21日にYouTubeにアップした「お気楽亭ライブ」は、アクセス数46という驚異的な数字を弾き出しているが、慢心してはおられない。辻井さんとのジョイントのオファーが来たら、どーする?

ヴァン・クラインバーン国際ピアノコンクール優勝後、ドイツで公演があった。アンコールで演奏されたのがリストのハンガリア狂詩曲の2番。9番とともに私の好きな曲であった。辻井さん、ショパンばかりやってんなよ、と思った。
あたしの幼少のときは、俗受けチョピンと呼んでおった。

※今日はほんの一部にフレームアップがありました。
チェロのいい曲を聴きたい。ヨー・ヨー・マ?カザルス?
うん、ま、悪かない。
宮沢賢治のを聴きたかった。セロ弾きのゴーシュ。

あんまり関係ないけど、バッハのトッカータとフーガ。
http://www.youtube.com/watch?v=ipzR9bhei_o&feature=fvw

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